主催/小林多喜二協会設立準備会(代表・島村輝)
事務局/ 〒249-0005神奈川県逗子市桜山6丁目1373-15
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小林多喜二 略年譜 佐藤三郎
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1903年 (明治36年)
12月 1日、秋田県北秋田郡下(しも)川沿(かわぞい)村川口(現在大館(おおだて)市川口)の農家に父・末松38歳、母・セキ30歳の次男として生まれる(<コラム>新日本版全集年譜では10月13日生まれとされていた)。兄・多喜郎、姉・チマ、継祖母・ツネがいた。小林家は8反歩(約80アール)の自作兼小作。
1904年 (明治37年) 1歳
11月、継祖母・ツネ、77歳で死去。
1907年 (明治40年) 4歳
1月、妹・ツギ(~1972)生れる。10月、小樽区新富町51番地の伯父・慶義の家で兄・多喜郎が病死。12歳。12月下旬、慶義にさそわれ一家は小樽へ移住。
1908年 (明治41年) 5歳
1月、一家は小樽南端の若竹町・「小樽築港駅」前に住居をさだめ、両親は伯父が経営していた三星(みつぼし)パンの支店をひらく。5月、小樽港の第2次築港工事が若竹町を起点に始まる。
1909年 (明治42年) 6歳
12月、弟・三(さん)吾(ご)(~2002)が生れる。
1910年 (明治43年) 7歳
4月、潮見(しおみ)台(だい)小学校に入学。
1916年 (大正5年) 13歳
3月、潮見台小学校卒業。4月、伯父・慶義の援助で庁立小樽商業学校(現在の北海道小樽商業高等学校。以下庁商と略)に入学、新富町の伯父の家に住みパン工場で働きながら通学。7月、妹・幸(ゆき)が生れる。
1917年 (大正6年) 14歳
学友・嶋田正策(せいさく)、斎藤次郎ら数人と学内サークルをつくり、水彩画を描きはじめる。
1919年 (大正8年) 16歳
4月、庁商校友会誌『尊商』の編集委員にえらばれる。詩、短歌、小品などを書きはじめ、庁商短歌会に参加し、作歌に励む。その一方、『文章世界』(博文館)、『北門日報』(主筆・岡田嘉子の父・緑風)にコマ絵を投稿、画才を示す。
1920年 (大正9年) 17歳
4月、嶋田正策、蒔田(まきた)栄一、斎藤次郎らと手製の回覧文集『素描』を創刊。詩や小品を『尊商』に発表するとともに、『文章世界』『中央文学』(春陽堂)へ詩の投稿をつづける。この時期、中央倶楽部白洋画会(小羊画会改称)展などに精力的に絵画を出品。画家を志すものの、伯父に反対され、断念。
1921年 (大正10年) 18歳
2月、『素描』の廃刊後、習作の原稿をミシンでつづり、「生れ出ずる子ら」の表題をつけて回覧した(第4集まで制作)。庁商に校長排斥運動が興る。3月、庁商を卒業。4月、伯父の援助で小樽高等商業学校(現小樽商科大学。以下高商と略)
に入学。5月、新富町の伯父の家を去り、若竹町18番地の自宅から通学。三吾が奉公をはじめる。『小説倶楽部』(民衆文芸社)に投稿をはじめ、8月号に短編小説「祖母の遺言」が選外佳作、10月号に「老いた体操教師」が入選。「ある嫉妬」が12月号に選外佳作。志賀直哉の文学を学びはじめる。
1922年 (大正11年) 19歳
4月、佐々木妙二(後、歌人)らとともに商校友会誌の編集委員となる。校友会誌に詩や短編を発表するほか、懸賞雑誌への投稿を続け、「龍介と乞食」が『小説倶楽部』3月号に選外佳作入選、「正当不正当」が6月号に選外佳作。「兄」が『文章倶楽部』(新潮社)12月号に当選。『新興文学』(新興文学社)11月創刊号に「龍介とS子」、12月号に「春ちゃんの場合」が予選入選、「健」が23年1月号に当選した。7月17日姉・チマが佐藤藤吉と結婚。
1923年 (大正12年) 20歳
3月発行『校友会誌』に「継祖母のこと」、10月発行に「ロクの恋物語」発表。『新興文学』(『新興文学』7月号に、「薮入」が入選。11月、高商の関東震災義損外国語劇大会のフランス語劇で、「青い鳥」(メーテルリンク原作)に一級下の伊藤整(後、詩人・作家)、高浜年尾(高浜虚子の長男。後、歌人)とともに出演。
1924年 (大正13年) 21歳
『中央公論』1月号掲載の志賀直哉「雨蛙」の読後感を、直哉に送る。3月、卒業論文に、アルフレッド・スートロ著戯曲「見捨てられた人」、クロポトキン著「パンの征服」
を翻訳。高商を卒業。北海道拓殖銀行札幌本店に勤務(6月小樽支店為替係になる)。4月、『素描』の仲間たちを中心に、同人雑誌『クラルテ』を創刊・主宰(第2輯から中津川俊六が参加)。7月『クラルテ』第二輯に「駄菓子屋」を発表、志賀直哉に送る。8月、父・末松が小樽病院で死去。58歳。10月ごろ、家庭のため身を売られ不幸な境遇にあった5歳年下の酌婦・田口タキ(1908~2009)と知る。10月、高商社会科学研究会の斎藤磯吉らが、同校の「無政府主義者団は不逞鮮人を煽動し」による騒乱を想定した軍事教練に対する抗議闘争を起こし、全国に広がる。島木健作(後、作家)、林房雄(後、作家)が学連(学生社会科学研究会、正式には学生連合会)から応援に入る。
1925年 (大正14年) 22歳
3月、上京して東京商科大学(現一橋大学)を受験したが、不合格となる。その足で神奈川県茅ケ崎に行き、南湖院に入院中の旧師・大熊信行(のぶゆき)を見舞う。『北方文藝』(高商文芸研究会)27年6月発行第4号に「田口の『姉との記憶』」、『極光』26年7月号に「龍介の経験」を発表。12月、田口タキを身請けす
る。
1926年 (昭和元年) 23歳
4月、田口タキを若竹町の自宅にひきとる。母・セキは赤飯を炊いて祝う。『クラルテ』第五輯・終刊号に「師走」を発表。5月 26日から、日記「折々帳」を書きはじめる。9月、葉山嘉樹の小説集『淫売婦』に感銘。11月 、田口タキが自活を求めて家を出る。
1927年 (昭和2年) 24歳
『小樽新聞』2月27日号に、「大熊信行先生の『社会思想家としてのラスキンとモリス』」発表。余市実科高等女学校で、『クラルテ』同人文芸講演会開催。多喜二は「ノラとモダン・ガールに就いて」を講演。磯野小作争議が、日本で初めての労働者・農民の共闘でたたかわれる(3月3日~4月9日)。銀行に勤めながらこの争議を支援する。高商の同級生乗富(のりとみ)道夫・産業労働調査所函館支所の協力を得て、函館で北洋漁業や蟹工船の実態を取材。「人を殺す犬」を『校友会々誌』27年3月発行 第38号に発表。改造社主催の「日本文学全集講演映画会」で函館に来ていた芥川龍之介、里見弴を小樽に招き、5月20日小樽で文芸講演会を開催。1500人が集う。その後、クラルテ同人主催の座談会をひらく。病院に住み込みで働いていた田口タキが、多喜二に行方を知らさずに小樽を去る。小樽港湾の運輸労働者を中心とする争議(6月19日~7月4日)が起こり、日本最初の産業別ゼネラルストライキがおこる。多喜二はこの争議に宣伝ビラ作りなどで積極的に参加した。工場代表者会議運動の典型として記録される歴史的闘争となった。8月、労農芸術家連盟に加盟(9月、小樽支部幹事となる)。古川(こがわ)友一が主宰する社会科学研究会に参加、労働農民党小樽支部、小樽合同労働組合の活動家たちとの関係をふかめる。『北方文藝』10月号に「残されるもの」、『創作月刊』28年2月号に「最後のもの」(「師走」改作)を書く。11月、労農芸術家連盟の分裂により、あらたに組織された前衛芸術家同盟に参加。小樽映画鑑賞会が創刊した『シネマ』で映画評を担当。
1928年 (昭和3年) 25歳
2月、初めての普通選挙(男子のみ)がおこなわれ、労働農民党から立候補した日本共産党の指導者・山本懸蔵を応援し、東倶知安(くっちゃん)方面の選挙演説隊に加わる。労農党は19万票を獲得し、山本宣治ら2名が当選。無産政党系議員計8名が誕生した。3月10日、
妹・ツギ、幸田佐一と結婚。3月15日、組合活動家、社会主義者などが全国で一斉検挙される(3・15事件)。小樽では約500名が逮捕・召喚され、多喜二の周辺からも検挙される者が続出。25日、前衛芸術家同盟と日本プロレタリア芸術連盟が合同し、全日本無産者芸術連盟(ナップ)を結成、機関誌『戦旗(せんき)』創刊。蔵原惟人「プロレタリア・レアリズム」に大きな影響を受け、伊藤信二、風間六三らとナップ小樽支部をつくる。5月中旬、10日間の予定で上京し、蔵原(くらはら)惟人(これひと)と会い、以後理論的影響を受けた。五月二八日、「一九二八年三月十五日」を起稿、原稿を蔵原のもとに
送り、『戦旗』11、12月号に発表した。7月為替係から調査係へかわる。9月5日、「東倶知安行」を書く。10月28日、「蟹(かに)工船(こうせん)」を起稿。小樽海員組合の『海上生活者新聞』(北方海上属員倶楽部発行)の文芸欄を担当。
1929年 (昭和4年) 26歳
2月10日、日本プロレタリア作家同盟が創立され(藤森成吉委員長)、中央委員にえらばれる。 3月30日、「蟹工船」を完成させ、『戦旗』5、6月号に発表。後半
を載せた6月号は発禁となったが両号とも1万2千部を発行し、直接の配布網をつうじて広く読まれ、大きな反響を呼んだ。4月20日、「4・16事件」の関連で、小樽警察署に拘引・家宅捜査された。5月、2年ぶりに田口タキと再会。7月6日、「不在地主」を起稿(9月29日完成させ『中央公論』11月号に発表。最後の章が作者に無断で削除された為、削除部分を『戦旗』12月号に「戦い」と題して発表)。
新築地劇団が帝国劇場で「蟹工船」原作の「北緯五十度以北」(5幕12場)を上演。8月、全小樽労働組合創立準備活動に参加。9月、調査係から出納係へ左
遷される。戦旗社版『蟹工船』が刊行、発禁処分を受けるものの改訂版を含め半年の間に3万5千部を売りつくし、当時としては記録的な発行部数となった。
11月3日、「暴風警戒報」を書く。16日、「不在地主」が直接の理由で、拓殖銀行を解雇される。『戦旗』30年2月号に「救援ニュースNO.18付録」を書く。
1930年 (昭和5年) 27歳
1月、中国左翼作家連盟の『拓荒者』創刊号で、夏衍が「蟹工船」を紹介。2月24日、「工場細胞」を完成、『改造』4、5、6月号に発表。3月末に単身小樽から上京して、中野区上町に下宿。4月2日、本郷・仏教会館での作家同盟第2回大会に出席、挨拶。田口タキ、4月10日ごろ、代々木整容学校入学のため上京。多喜二と3週間ほど同居。多喜二序文を掲載の中国語訳『蟹工船』(潘念之訳 大江書鋪)が、上海で出版された。
5月中旬、「戦旗」防衛巡回講演のため、江口渙、貴司山治、片岡鉄兵、大宅壮一らと京都(17日)、大阪(18日)、山田(20日)、松阪(21日)をまわり、京都では山本宣治の遺族を訪ね墓参した。23日、大阪で日本共産党への財政援助の嫌疑で逮捕され、中之島署で拷問を受ける。6月7日、いったん釈放されたが、帰京後の24日立野信之方で立野とともにふたたび逮捕された。7月19日、多喜二と山田清三郎(『戦旗』編集長)は、東京区裁判所検事局によって『蟹工船』の表記が「不敬罪・新聞紙法違反」にあたると追起訴された。8月21日、さらに治安維持法違反で起訴され、豊多摩刑務所に収監される。以後5ヶ月の未決生活。東京左翼劇場は、10月4~13日、佐々木孝丸演出、小野宮吉・島公靖脚色で「不在地主」を市村座で公演。
1931年 (昭和6年) 28歳
1月22日、保釈出獄した多喜二を壷井栄らが出迎える。市外杉並区成宗88番地 田口守治方に下宿。翌23日、新宿・不二家で中條百合子(後、宮本)たちと出獄祝いのお茶会。3月、『東倶知安行』を刊行。このころ田口タキとの結婚を断念。4月6日、「オルグ」を完成し、『改造』5月号に発表。5月24日、作家同盟第3回大会に出席。6月、蔵原惟人提唱の文化団体再編成が準備される。志賀直哉に『蟹工船』などの作品を送り、批評を求める。
獄中体験をもとに「独房」を書き、『中央公論』7月号に発表。夏、文化団体の党グループの活動に従事している手塚英孝(ひでたか)と初めて会う。
7月作家同盟第4回臨時大会が開かれ、第1回執行委員会で常任中央委員・書記長にえらばれる。同月末、小樽から母を迎え、杉並区馬橋に一戸を借りて弟と暮らし始める。8月、『都新聞』(現『東京新聞』)に、「新女性気質」(後、「安子」に改題)を連載。志賀直哉からのはげましの書簡を受ける。大阪での獄中闘争をもとに「飴玉闘争」(
『三・一五、四・一六公判闘争のために』)を書く。9月、長編「転形期の人々」を書きはじめる。作家同盟発行パンフレット『われら青年』に、壁小説「七月二十六日の経験」を発表。古川大助のペンネームで、『労働新聞』(日本労働組合全国協議会機関紙)9月3日号に小説「父帰る」、『改造』11月号に「母たち」、『婦人公論』32年1月号に「十二月の二十何日の話」を発表。10月、非合法の日本共産党に入党。
同月24日、日本プロレタリア文化連盟(コップ)を結成。 11月上旬、潜行して奈良に赴き、志賀直哉を初めて訪ね、語り明かす。9日帰京して、志賀直哉へ礼
状。15日、作家同盟の拡大中央委員会で芸術協議員に選ばれる。「蟹工船」「一九二八年三月十五日」が、国際革命作家同盟機関誌『世界革命文学』ロシ
ア語版に訳載され、前後して英語、独語、仏語に抄訳された。
1932年 (昭和7年) 29歳
『東京朝日新聞』3月8~10日号に評論「戦争と文学」を発表し、反戦文学のあるべき姿を語る。「沼尻村」を『改造』4、5月号に発表。『新潮』4月号に「『文学の党派性』確立のために」を発表。3月24日、文化団体へ大弾圧がはじまり、蔵原惟人、中野重治ほかの幹部が逮捕された。4月上旬、宮本顕治(1908~007)、杉本良吉(1907~39)、今村恒夫(1924~36)らと非合法活動にうつり、文化運動の再建に献身した。同月中旬、以前から交際のあった伊藤ふじ子(1911~1981)と「結婚」。麻布東町に住む。
同月、作家同盟第5回大会の一般報告を執筆。『プロレタリア文化』6月号に、「暴圧の意義及びそれに対する逆襲を我々は如何に組織すべきか」を書く。6
月、文化団体党員グループの責任者になる。郷(ごう)利樹(りき)名で、非合法の日本共産党中央機関紙『赤旗(せっき)』4月23日付に「ある老職工」(全集未収録)、6月25日、7月1日付に清水賢一郎名「戦争から帰ってきた職工――八・一(反戦)デー近づく」(多喜二全集未収録)ほかを発表。7月、日本反帝同盟の執行委員になる。麻布新綱町にうつり、8月25日、五反田・藤倉工業での解雇撤回闘争をもとに「党生活者」を執筆。ふじ子の母を呼び寄せ、9月下旬麻布桜田町に一戸を借りて住む。この前後から林房雄を代表とする敗北的見解にたいし論争をつづけ、『プロレタリア文化』8月号に、「日和見主義の新しき危険性」を発表したのを始め、「二つの問題について」、「右翼的偏向の諸問題」など文化運動の指導的論文を数次にわたり発表。また、『プロレタリア文学』に文学運動内の敗北主義的傾向を批判する論文を書く。年末、吉祥寺・江口渙宅で、33年5月に上海で開催が予定された極東反戦会議の準備会に参加。
1933年 (昭和8年)
1月7日、「地区の人々」を書き、『改造』3月号に発表。このころ伊藤ふじ子が職場で検挙される。渋谷区羽沢町国井方にひとりで下宿。北海道の活動家・風間六三と本郷、麻布で連絡、共産党中央部員・宮本顕治と引き合わせる。2月13日、「討論終結のために(右翼的偏向の諸問題)」を書く。20日、正午すぎ、赤坂福吉町で連絡中、今村恒夫とともに築地署特高に逮捕され、同署で警視庁特高の拷問により午後7時45分殺される。29歳だった。検察当局は死因を「心臓まひ」と発表。解剖を妨害し、22日の通夜、23日の告別式参会者を総検挙した。志賀直哉は、2月22日の日記に「小林多キ二捕らえられ、悶死の記事あり」と書き、多喜二の母・セキ宛に「不自然なる御死去の様子を考えアンタンたる気持ちになりました」と弔文と香典を送る。さらに25日の日記に「小林多喜二(余の誕生日)に捕らへられ死す、警察官に殺されたるらし、不図彼らの意図ものになるべしとふ気がする」と書く。ロマン・ロラン、魯迅をはじめ、国の内外から多数の抗議と弔文がよせられた。3月15
日、築地小劇場での労農葬を始め、全国で多喜
二を偲ぶ集いが取り組まれた。『赤旗』『無産青年』『文学新聞』『プロレタリア文化』『プロレタリア文学』などが追悼と抗議の特集号を発行した。『中央公論』編集部は、多喜二から預かったままにしていた「党生活者」原稿を、遺作として「転換時代」の仮題で4、5月号に、伏字758ヶ所、削除約14,000字の姿で発表した。